学びの自由を求めて

学びって何だろう。一体誰のために学ぶんだろう、と思うことがよくある。

今現在、私が教えている人たちは大人で、学ぶことが義務ではない。誰からも強制されていない。

それでも「英語を学びたい」もしくは「話せるようになりたい」という思う気持ちがあり、私もその気持ちを最大限に尊重したい。

早く成長を実感してもらうためにも、効果的に学んでほしい。なので宿題を出したり、レッスンノートを作ってお送りしている。

しかし、その方が忙しくて宿題ができなかったとき、

「宿題できなくてすみませんでした」と言うことが時々ある。

最初私は、その発言にあまり違和感を感じていなかった。

というのも「学習を定着させるために、宿題は必ずやるもの」といった固定観念や、「せっかく作ったのにやってもらえなくて残念」「つまらない内容だったのかな」といった自分視点の考えがあったからだ。

でも次第に、「あれ?」と感じるようになってきた。

一番大きな理由は、私自身が韓国語を学び始めて「学ぶことって楽しい…!」って心から感じるようになったからだと思う。

学ぶたびに、世界が広がる。

上手く文章を作れたときに感じる満足感、相手の言っていることが少しでも分かったときに感じる高揚感など…新しいことを学ぶのってなんて楽しいんだ!とそのことが分かってまた嬉しくなったり。

何の義務のなく、ただひたすらに学びたいだけ学び、「楽しい!」と感じている。

もし、これが誰かに「管理された学び」だったら、どうだろう?と考えた。

この自由な学びの領域が、自分のわくわく以外のものに侵害されるのは嫌だ。

「あれをやらなくちゃならない」とか、「これを学んだ方が良い」とか、「学ぶのが遅い」とか。

そんな学びは絶対に嫌だ。

私はもっと自由に楽しく学びたい。そして自分が英語を教えている人にも、自由に楽しく学んでほしいと願っている。

うつくしい、自然のもよう

学ぶことから得られる満足感や楽しさは、誰にも邪魔できない、神聖な領域だと思っている。

例えば宿題をやりたくない、という感覚があれば、それは今のあなたには必要のないもの。忙しくてできないことがあれば、それは他にやるべきことがあるのかもしれない。

「優先したい」ことを優先する。

それが生きることだと思うし、強制された学びに、一体どんな意義があるのだろうか。

学びは誰のためでもない、学ぶ人自身のためにある。

レッスンの日を楽しみにして、「今日は何を学べるかな」と、胸を膨らませてもらえるような、そんなレッスンにしたいと思っている。