最近、立て続けに色んな出来事があって、日々、心の様子が変わっていく。
起きている出来事は様々だけど、その中にある学びが、何か一貫性があるような気がして。
「それらは一体なんだろう?」という興味と好奇心がある。

一つの出来事としては、社会の中でようやく誰かの役に立てるようになってきたこと。
ここ数年、自分は「社会に必要とされない人間」だとか「ずっと努力してきたけど、社会の中に私の居場所はない」という思っていた。
それが、少しずつ「あなたのやっていること、存在には価値があるよ」と認めてられるようになったこと。
私の学びに対する姿勢やオリジナリティ。スキルや経験、存在を全部。まるっと全部。
もしかすると、周りの人たちはそんなメッセージをずっと送ってくれていたのかもしれない。「あなたには価値があるよ」って。
ただ自分だけがそのメッセージを受け取ることを拒否していたのかもしれない。
そうしてようやく今、自分自身が自分の価値を認め始めただけなのかもしれない。
隠しもしない、ありのままを。
デコボコも、そのまま。

昔、社会的に認められることがあったとき、「認めてもらった!」と舞い上がって調子に乗った。
「誰かと比べて自分は成功している」とか「これでようやく社会的に安定できる」とか。
もちろん、今でも時々そんな声が聞こえるけど、もっと大きなものにつながると、そんな声はすーっと消えていく。
それは「いのち」とのつながり。
それが一体何なのか、まだ上手く言語化できないけど、綿々と続く「いのち」を生きる中で、何か一つのバトンを渡されている感じ。
私の存在自体も、その大きな「いのち」の一部。

わたしの「いのち」は色んな形を通して現れる。
身体を通して。私の感情を通して。興味や学びを通して。
英語もそうだし、その他たくさんの媒体がある。
食べたい、という身体的欲求や。
嫌だ、楽しいという感情。
これが知りたい!という欲求も。
私の中にある、柔らかなところも。
すべてが何らかの「いのち」の発現。

そんな「いのち」をみんなに分け与える中で、「お返しをしたい」と思ってくれている人たちの存在に気付いた。
以前は「私はまだまだだから」とか「受け取るに値しない」「相手に悪い」と思って、受け取りを拒んでいた。
でも、自分の中にある「いのち」を感じて存在を受け入れたとき、受け取らないことは、自分の「いのち」だけではなく、もっと大きい「いのち」を軽んじていることに気付いた。
この「いのち」は、私だけのものではない。
だから、もらいすぎも、もらわないことも、どちらもエゴなんだと。
私一人が豊かになっても仕方ないし、「謙虚ないい人」になっても仕方ない。
「欲しい」という気持ちや憧れも、純粋ないのちの躍動の表れ。
「食べたい」というのも大事な生命力。
この自分の「いのち」にどれだけ敬意を与えられるだろうか。
自分、というものに固執せず。
そして、自分の「いのち」が「大きないのち」の一部と感じたとき、そこに圧倒的な謙虚さと敬虔さが生まれる。
そこには驕りも卑屈さも存在しない。ただただあるだけ、の。
私の役割は、ただただ自分や周りにある「いのち」に耳を澄ませ、生かしていくことなのだ、と。
この借り物の「いのち」を育てて、次につなげること。
自分がまるで「器」になったかのように、受け取り、与える。流していく。
そこにあるはずの、「いのち」の存在を信じて。
そんなことがしていきたいのかもしれない。

こんな「いのち」を生きたい。