以前、仕事が辛くなって辞めたとき、まず最初にしたことは、デジタルの一眼レフを買うことだった。

二十代で一眼レフを持っている人に対して、なんとなく「すかしている」のような偏見を持っていたが、なぜだか自分も買ってみたくなった。そんなのはやっかみにしかすぎなかったのだろう、買ってすぐの頃はどこへ行くにしても持ち歩いていた。旅行に行くときはもちろん、友達と遊びに行くときさえも。

今では「重い」という理由で、旅行どころか、近くでさえ持っていくことが少なくなってしまったが…。

最近、気持ちのスペースを空けるために、書類やデータを整理している。

カメラを買ったばかりの頃の写真を見つけた。

自分で言うのもなんだが、結構いい写真なんじゃないか、と思う。

その写真を眺めながら、その頃の自分の存在を感じる。

「写真を撮る」という行為を通して本当にしたかったことは、「生きていること」を見ることだったんじゃないかなぁ、と今なら分かる。

じっと見る。レンズ越しでも「写真を撮る」という名目を持って、思う存分見つめる。

じっと観察する。日常の中にそんな時間は多くない。少なくとも、あの頃の私には無かった。

すくっと生きている命を見つめることで、少し弱くなってしまった自分のいのちを回復させようとしていたのかもしれない。

まるで、命綱を見つけるかのように、呼吸するための酸素を探すかのように写真を撮ることで、被写体から生命力をもらっていたのかもしれない。

回復した今、あの頃のような写真を撮ることができない。

今日のような大寒の寒い日でも、暖房の効いた部屋に居続けるとだらけてしまうように。

そんな今でも「見る」ということはできる。

レンズを通さなくても、直接ありのままを見ることができる。

デジタル化され、削ぎ落とされた情報じゃなく、五感が溢れた「本物さ」を。

自分を通して流れている「生きている」という感覚を。